2023.02.26 公園遊び、違国日記

今週も比較的しんどい一週間だった。

  • まず仕事がうまくいっていない。締め切りが迫っていて、なのにバグっぽい挙動の原因がはっきりしない。バグじゃないかもしれないし、原因も絞り切れない。腰を据えてデバグしないといけないが、どのくらい時間がかかるか読めない。
  • 風邪などはないが、体力と気力は低く、カフェインブーストでなんとか昼を乗り切り、夜は回復に充てるしかない。
  • 今週は祝日で保育園休みがあり、また予防接種で半日保育園休みもあり、仕事が進まない。

この一週間の記憶があまりない。よかったこともあったのかもしれない。もっとしっかり思い出したほうがいいかもしれないが、嫌なことを思い出したくないので、短期記憶にあるものだけ吐き出して寝る。

2月25日(土)

仕事の状況は思わしくないが、一旦すべてを放り出して子供と遊ぶ。幸い天気がいいので少し離れた公園に出掛けた。同月齢くらいの子供が親とボールで遊んでいるのを指差して「あー」と叫び、そのボールをよこせと主張する。相手の子供は大変よく教育されていて、「貸してあげようか…?」という態度だったし、向こうの親も「貸してあげなよ」と言ってくれた。しかし、私が「貸してもらっても一緒に遊べるのだろうか、うちの子が単に奪いとるだけなのでは、お礼とか絶対言わないだろうし…」と考えて丁重にお断りしてうちの子供を引き離してしまった。これでよかったのだろうか。多少迷惑をかけても相手の親切を受け取るほうが、自分も相手に親切にしてあげようという考えになるのだろうか。互恵関係を結ぶ練習の機会だったのだろうか。しかし同じ公園で遊ぶ仲間という関係はあっても、今日初めて会ったばかりだし、コロナだ在宅だでそもそも人と話すハードルが高い。親(私)がこんなで子供は人付き合いをどうやって学ぶのだろうか。

2月26日(日)

実家に半日子供を預かってもらって、休息と家の片づけに充てた。少し寝よう、その前に少し読もうと思って『違国日記(ヤマシタトモコ)』を読んだ。最高の育児漫画だった。両親を事故で亡くした中学生の姪を引き取った叔母。この叔母が人付き合いが苦手ながら思春期の子供の心に付かず離れずよりそう。「あなたの感じ方はあなただけのもので、誰にも責める権利はない」とある意味では厳しく、ある意味では子供の心を尊重した態度で接する。本来そうなんだよなあと思う。しかし、自分が子供に接するときに、これができるだろうか。中学生という自分の身の回りのことや周囲との関係も自分で一応できる年代になってから、それまでの文脈を持たずに急に親業を引き継ぐことになったから可能なことともいえる。子供が小さい時は、泣く事でしか主張できない子供に、それは悲しいね、それは悔しいね、それは嫌だけどこれで我慢してね、それは嬉しいね、楽しいねと一つ一つ語彙を与えるところからやっていかないといけない。それがこの後何年も続く。いつまで続くんだろう。どのくらいになったら子供の気持ちというものが自律走行を始めるのだろう。そのとき私は子供からどう見えているのだろうか。どう見るかは子供の権利だが、そのときに親の願望の枠、偏屈な親の性格の枠にはめられたと感じるだろうか。